studio-aulaの日記

長野県松本市、塩尻市、安曇野市などで活動する一級建築士事務所です。

塩尻市へ

私の生まれ故郷は松本市の隣・・全国的にはあまり名前の知られていない塩尻市というところだ。塩尻市と人間との歴史は古くは平出遺跡に代表されるように縄文時代から豊かな土地で人が暮らしやすい所だったことから始まる。

江戸時代には中山道善光寺街道、北国脇往還西街道、野麦峠など重要道路が交差していた。この時代、このまちは宿場町と交易産業、純農村地域から成り立っていた。
しかし少しだけ特殊だったのは藩領が松本藩、諏訪藩、高遠藩また時に幕府領と支配が交雑していて飛地支配であった古くからの農村地域が独自の文化が育っていた事だと思う。
私の生まれた場所も当時の高遠藩主保科 正之が徳川家康から大阪夏の陣のご褒美に増石され1718年から高遠藩に変わっている。

実家の墓石は6個あるのだが一番古いモノはうっすらと明和6年(1770年)と記されているから当時からここに住んでいたみたいだ。
しかもこの墓石のご先祖さまはこともあろうに私の誕生日と同じ月日に亡くなっているし時刻も私の干支の時刻が刻まれていたので小さい頃はもの凄く不気味で憂鬱の種だったのだ。

話はそれたけどそんなわけで塩尻市の問題点は現在もその影響は少なからず残っていて、古くから定着している人、転勤などで引っ越してきた人の交流がほとんどされることもないことだと思う。寸断されている文化構造というのかそれは企業や地元の大学と住民との関わり合い方にも写実に現れていて、江戸時代に宿場町で過ごす旅人のような感覚でこの町で生活している人も多いように感じる。

それはまちの成り立ちやまちについて知る機会が少ないことと、古くから残っている住民意識がそうさせているように思うのだ。これから塩尻市がもっと人と人が交流し住んで良かったと思える街になっていって欲しいとココロから願っているわたしなのだ。
今日はここの大門商店街の市民交流センタープロポーザルに提出された作品の一般公開展示の日だった。
私たちは下調べに時間が掛かってしまい・・提出出来なかったけど力作揃いで期待も膨らみます。
私が良かったことはいろいろと地域のことやNPO活動、地区活動の成り立ちなどについてわかったことかな?