studio-aulaの日記

長野県松本市、塩尻市、安曇野市などで活動する一級建築士事務所です。

いのちについて

今から10年ほど前のことになるんだけど、いのちについて考えるきっかけを与えてくれたお施主さんとの出逢いが私をいろいろと導いてくれた。
その頃、私は人間としても設計者としてもまだまだ未熟で老いさえ自分には関係ない話だと思っていた。一言で言えば世の中を舐めきっていた新人類という感じだったかもしれない。

その家の依頼者は中小企業の社長で年は60代初めの方で、とにかく急いでいて立派な家が欲しいという要望だった。予算は一億ほどで住宅で一億ってかなりの高額物件なので猜疑心をもちながら打ち合わせしていた。でも本当は奥さんが癌の末期で苦労かけたから最後にプレゼントしてあげたいというのが本心だった事をそれから8ヶ月後に知ることになった。
出逢いから8ヶ月後・・冬でとにかく寒い日だったことを覚えてる。
奥さんが亡くなった。家は木工事終了間際だったけどその中で一晩過ごさせてあげたいと言われて和室の畳を急遽創りなんとか通夜を終えた。真新しい畳の上に奥さんは寝かされていて今までの苦労をねぎらっていた声が聞こえていた。「おまえのうちやぞ」という。

それから数年後私はイタリアに行ったんだけど何かを変える必要を自分の中に抽象的にだけど感じていたからだと思う。

帰国して仕事を初めてから少し経って私はもっと衝撃的な気付きを与えられることになった。それは私が長野に帰ってくるきっかけになった出来事なんだけど・・

それは急にやってきて・・RCのやっぱり1億くらいの家だったんだけど着工する頃担当が急に首になって監理は私がすることになってしまった。施主さんは40代の方でFさん。離婚されていたので身内は兄弟だけそして婚約者の女性がいつも一緒だった。

何回目かの打合せの時ショールームに設備の確認に行くためにFさんの自宅で待ち合わせした。最初Fさんの運転で初めてFさんの自慢の愛車にのせてもらう予定だったんだけど運転席に乗ろうとした時、腰に手を当ててイタタっていいながら私に運転を代わるように言った。

その後は何も変わったこともなくって外科にちょっと行ってくるって言ってた。
次の打合せの時お逢いするととても深刻な顔でそして強い口調で私に言った。
「癌で入院することになったから次回から病院に来て欲しい。でも絶対直るから」
その日から亡くなるまで私は週に2日病院に行った。病状が悪いときは週に3日。
亡くなったのはやはり竣工する1ヶ月ほど前だったけど、私と住宅の話をする事で生きる意欲を維持していた。
いつできるの?毎日携帯で聞かれた。

私も同時に死と向き合っていた。あまりにも入り込み過ぎだと回りに注意されたこともあったけど同時に彼の死と向き合うことがこの時の私の生きる意味でもあるような気がしていただけかもしれないけど。

家をつくることは・・
命をかけることであると
命を削ることであると
この出逢いを見せてもらって
教えてもらった。

亡くなってから私の前からも希望が消えてしまったようになって長野に帰ってきたんだけどそして数ヶ月は何もできずに。寝て・・起きて・・食ってそれから何か始めようと思ってミールと散歩を始めたら風に吹かれて舞っていく葉っぱをミールと追いかけてから
もうちょっと真剣に生きようと決めた。

ねぇ。だからたとえおろかな私でも
生きる意味を感じる仕事をしたい。