studio-aulaの日記

長野県松本市、塩尻市、安曇野市などで活動する一級建築士事務所です。

座禅と日本庭園

studio-aula2005-09-29

  私は昨年まで座禅を趣味としていた。黙想状態になる時場所など関係ないと言われたが禅堂で参加した時の空気とか気配は格別の物があった。長野県では旧丸子町の長昌寺が座禅初心者に親切に1から教えてくれて良いです。
 禅宗独特な自然観とは何か?現在禅宗臨済宗・大ばく宗・曹洞宗の3派に分かれていて少しずつ教えも違っている。その中でわたしは臨済宗のお寺で座禅修行をした。
京都でいえば大徳寺妙心寺の宗派である。正確に言えば大徳寺妙心寺は少し一派が違う。  
 禅の教えによると唯心(この世で実在するのは心だけであり、総ての事物、現象は心の働きによって仮に現れた物である)の浄土(汚れや迷いのない土地、佛の世界)己身の阿弥陀仏と説かれている。「無限の自由と愛の世界この身このままが仏である」
 座禅はあるがままの自分を見いだし、自分自身が仏であると悟るために行っているのだとよく言われた。また禅堂で夜間に座っていると蚊が足などを刺すのだがそれでも動いてはならず、人間が自然の中にいるのだから、蚊を殺してはならない。人間も自然の一部なのだからと説教をされた。 
 枯山水は概念的な庭園で自然の営みを人間の念の中で表現した物だ。作庭者の自然観が最も良く表現されている。
 ただひとつの石を山にみたて白砂を流れにみたてる手法の中で石を置くにしても、砂を掃くにしても緊張感と自分なりの創造性に大きく左右されることは理解できる。
それには自然と向き合い、己も自然の一部と化すほどに見つめ続けてこそ観念の中で生まれてくる形なのだ。それは禅僧としても卓越し、何年も修行を続けたからこそ得られる自然観なのではないだろうか?
 人間の気持ちと同じで自然とは移ろうもので、一瞬なりとも同じではない。その中から生まれる雲や水の陰や形になんともいえない美しさを感じる。それは移ろいゆくときに前の気配をのこすからなのではないだろうか?
 枯山水もまた一瞬たりとも同じではいない。季節によりまた砂を掃く人により、また同じ人間でも心理状態によって変化を遂げるはずだ。だからこそ美しい。
自分が座禅を行った禅堂のなかで最も良い気配を感じたのはその昔白隠禅師が何年か滞在した長野県飯山市にある正受庵だった。
飯山市は盆地だがその高台に位置し、周辺は山に囲まれ、自然の中に一件たたずんでいる。また寺からは下界が見渡す事ができる。
この寺の庭園は枯山水庭園ではなく、庭には水が引かれ池が造られていて座った後に池の鯉をみるとほっとした。ただ、今も昔の暮らしを守り托鉢だけで生活を営む住職がひっそりと暮らしていた。街の雑踏の中にある砂利道の多い寺とは違い、すぐそこにはイノシシも出没する。
ここでの心地よさは本当の自然の山に囲まれた寺だから自分も禅の中で自然との一体感を感じあるがままの自分に少しだけ近づけた気がする。見栄も意地ももたなくてもそのままでいいのだと心から何かがあふれてきた。