studio-aulaの日記

長野県松本市、塩尻市、安曇野市などで活動する一級建築士事務所です。

曖昧な境界

境界は人の都合で決めるもの。
建築でも内と外の曖昧な境界という空間を持つ建物がありどちらかと言えば境界の曖昧さから様々な可能性が生まれ面白さ、楽しさも表現できると考えています。

しかし人間の都合で決めていく境界線は一歩間違えると好き嫌いの境界線であったりイデオロギーの違いから生まれる区別的な境界線とも置き換えられ、人と人を遠ざける境界線にもなります。

果たして?
自分は今まで意識せずともそうした見えない境界線を引いていました。でもこれからは人を見えない境界線で区別しないようにしようと思います。

人の持つ優しさ、強さ、苦しみや痛みは時に眠れないほど人を闇に置き去りにするしかないけれど、それでも人を憎まず、僻まず、許しそして祈りを続けていけばやがて苦しさは人を構成する血液と成りやがてその人そのものを形成し人としての深みと温かみを見につける糧となる。

だからそれを糧にしてひたすら前に進むしかない。
ひたすら前に進むしかない。
そう思うことにしました。

氏より素性(自分メモ)
村野藤吾 和風建築集
井上 靖 序文より引用
「村野先生とお茶の道具についてお話をしたことがある。その折、氏は、ー道具というものは、氏より素性ですね。と言われたが、その言葉が今も心に刻まれている。確かに氏より素性、生まれより育ちといったところがあるだろうと思う。
誰が造った茶碗か、誰が所持した茶碗か、どのような茶会に出た茶碗か、そのようなことは正確には判らない。伝承通り由緒ある茶碗であるかもしれないし、そうでないかも知れない。しかし、もともとはそうしたことはたいしたことではないのである。
 それよりそういう茶碗にまつわる伝承がそのまま素直に信じられて、その茶碗が長い歳月を通して、今日まで大勢の人たちに大切にされて生き永らえて来たということ、そのことが大切である」

「だから自分は造る、そして人に渡す。自分の造った建築が、その内部に持っている生命を輝かしいものにする、しないは全くそれを受け取った人が、その建築に愛情を持つか、持たないか、換言すれば設計者としての心を大切にするか、しないかにかかっている、こういうことになろうかと思う。

この言葉が建築家の村野先生から出たことに興味がある。ー自分は建築家であり建築家以外の何者でもなく、自分の生み出すものは建築であり、建築以外の何ものでもないー」引用ここまで


建築家以外の何者でもなく、自分の生み出すものは建築であり、建築以外の何ものでもない。

と今生を終えるまでに言うのが私の目標です。