studio-aulaの日記

長野県松本市、塩尻市、安曇野市などで活動する一級建築士事務所です。

勉強会

8月8日には松本駅お城口(東口)について考える勉強会が行われました。
常に変化していくまちの中にあってその街を特徴づける駅というのは街の核とも成るべき場所で街のアイデンティテイを明確に表現し様々な広がりを生む場として捉えることが一般的だと思います。
例えば1994年の京都駅は遷都1200年の記念関連行事のなか国際指名コンペで設計者が決定しました。基本コンセプトは「文化の香りと躍動する町のメディアとしての駅」で京都駅は現在の駅で4代目になるそうです。
コンペに勝ったのはもっとも高さが低い60メートルの案を出した原廣司/アトリエファイ建築研究所でした。
ジオグラフィカル(地理学)コンコースが中央コンコースのメインに位置し内包された空間がガラスで構成されることによってどんなに人や物の錯綜があったとしてもまるで生きている町並みの中にいるような活気として映し出されています。今も賛否両論ある京都駅ですが私は大好きです。

この駅が選ばれた背景にあるのは京都の人の気質もあると思うのです。京都は古風な都市と思いがちですが実は新しいものを生み出し受け止める勢いが街のなかにしっかりと根付いている場所でした。

現在では想像もつきませんが京都は明治時代、帝が東京に移ったことで非常に民が落胆し産業も後退する暗い時代だったそうです。その頃、京都に活気を呼び戻すきっかけになった技術者がいました。
明治の初期に琵琶湖から疎水を引いた田辺朔朗でした。このきっかけが実は彼の書いた京都大学卒業論文で工部大学校校長から当時の知事の耳に入ったことだったそうです。



田辺朔朗は数々の苦難との戦いの末、無事に琵琶湖疎水を完成させそれが電力供給、先には京都市電の開通の源になり当時の民の盛り上がりは相当なものだったそうです。
現在は市電は廃されて、インクラインは跡が残されましたが疏水は今も京都の水源としての役割を担うだけでなく疎水にそった人々の暮らしがすっかり文化のひとつとして引き継がれています。
確かインクラインの跡のそばに寄り添うように若き田辺朔朗の銅像が今も残り京都で学ぶ学生達の間では語り継がれる人物となっています。