studio-aulaの日記

長野県松本市、塩尻市、安曇野市などで活動する一級建築士事務所です。

昨日の続き…

パクリ文化
 この問題の発端とは2チャンネルで文字から構成されたモナーというネコに企業が名前を勝手に付けてのまネコという名前で世間一般の人の目に触れるようになった。それからその、のまネコのグッツ販売と登録商標の申請をして(現在は取り下げた)商品として売り出しプロモーションビデオに登場させ商業ベースに載せてしまったことだ。
 2チャンネラーの怒りの声の中にはみんなで使っていたモナーが別の名前でお金儲けの手段として使われることが我慢できないと主張する声が多い。彼らの多くの書き込みではモナーをまるで掲示板の中の飼い猫の様に愛着を感じている人たちが多いし、この問題が起きてからもいろいろなモナーが登場している。泣いていたり、チャーハンを作っているモナーや数多くの書き込みに(みんなありがと)とお礼を言うモナーまで登場した。こうなると掲示板での即興性とスピード感は誰にもコントロール出来ず時間と共に動きを早め非難、中傷、デマが増えついには殺人予告まで書き込まれてしまった。
その背景で見逃してはならないのはこの企業に対しては掲示板の中では専属歌手の歌やプロモーションビデオやCDのジャケットがマドンナやセリーヌディオンのものに似ているという非難が数年前から集中的に書き込みされていたことだ。それはパクリリストというホームページにも掲載され、私には酷似しているように見えた。それに対しての企業の言い分は「似ている、似ていないは各自の主観による」と公言している。企業は掲示板のアクセス数の多さ、利用する人たちの曖昧さそれから影響を受けやすい若者の利用者が多いことをあまり把握していなかった。
狭い世界で生きている彼らにとってネット上の情報が全てでありそしてその場で一つの巨大なコミュニティーを形成している。その場で発生した現象と不特定多数の絶対的な意見を無視していては今後の市場を拡大していけないだろう。
仮に個人が朝つくったものが昼にはネットに登場するような時代では真の制作活動は難しいのだろうか?情報が氾濫していて良い悪いに関わらず既に様々なデザインやアイデアは出尽くしてしまい、似てしまうのは当然なのだろうか?いいやそうではないのだ。私はその境界線は明らかであると考える。
 最初から売れ筋を意識しアメリカの歌手を模倣した物は明らかに盗用である。しかし、制作者が自らの意志で考え出す為に挌闘し作りだした物は例え、似てしまっても盗用とは言えないのだ。現代ではその辺の線引きが曖昧になってしまったようだ。
盗用しても多くの人から支持を受け、巨大な富を生み出すことが出来ればすなわち成功なのだと購買者も企業もそして一部の投資家さえも捉えているように見えるしそんな社会の風潮なのだ。ネット社会では人の作った物が簡単にコピー転載出来る。そしてそれは酷く便利なのだがデザイン文化においては本当に危機的な社会なのかもしれないのだ。
私達はネット社会のルールを実はよく分かっていない。曖昧とした決まり事はあるような気がするがそれは、現実社会での一般常識の範疇で考えられている。
一般社会とネット社会では大きくあり方が違う。巨大掲示板に書き込みをする内の多くの若者はニートだ。それは彼らも公言しているがネット社会と一般の社会の境界線を完全に引けなくなりネットの中だけのコミュニケーションに中毒してしまうのだ。そしてあたかもそこが自分の居場所であるかのような錯覚を起こしてしまう。しかし、私達は新しい時代に遭遇しているデザイナーとしてあるいは人間としてネット社会の中の問題点と公然と向き合うべきなのではないだろうか。
 かつて日常生活で使っているものに美しさをみいだした民芸運動柳宗悦の時代のように誰が作ったのかが重要ではなく、そのもの自身が内包している空間と時間の美しさが見直された時代もあった。
 その時代と現代が大きく違うことはやはり巨額の資金である。アスキーアート掲示板という狭い日常生活の中で皆に公平に利用され楽しまれ、愛着をもたれ、飼い猫のように人の手を通している間は誰も何をも主張しないで掲示板の中は平和でいられたのだ。  
環境デザイン的に捉えた、のまネコ問題 
環境デザインという言葉が使われるようになって20年ほどになる。
環境デザインというと、一般の人には造園的な視線で受け止められがちだが、私は環境デザインとはさまざまなデザイン、場所、シュチエーションにこれからの複雑化する時代に重要な考え方だと思うのだ。モノとモノの関係の中に人間が介在しそれぞれの関係性を整理、統合し意味づけしていけばこのような問題にも答えを見いだせるはずだ。
 環境デザインという言葉自体も曖昧で自分自身も巧く表現できなかったのだがのまネコ問題を客観的に捉えてみたときに漠然としていた環境デザインとは何かという自問自答への答えも少し見いだせた気がする。
 この問題では2チャンネルが一つの世界観なのだからそこに即した環境デザイン的視線でアスキーアートの存在を捉えなかったことに問題がある。無料でしかも不特定多数の人の参加する匿名性の世界、掲示板では新聞やテレビとも違う価値観が存在するし金銭のとらえ方、そしてデザインに対するとらえ方も違う。自由にコピー、貼り付けしそこで様々に変化を遂げていくのがこの社会でのデザインでありそこには著作権は存在してはならない。
 私達はこれからもっと複雑化した社会で様々なデザイン感をもつ人たちの中であるいはその人々の為にデザイン活動をしていく。私はこの中で、常に広い視線からつまり環境デザインの考え方に沿ったやり方で活動をしていきたい。その為には、まずは環境デザインの考え方を常に深め、追求し自分なりの結論を出すべきだと感じる。