studio-aulaの日記

長野県松本市、塩尻市、安曇野市などで活動する一級建築士事務所です。

*[book]見えない庭

studio-aula2005-08-10

ピーターウォーカー、メラニーサイモ共著「見えない庭」
5人の作家の概要と所感
フレデリック・ロー・オムステッド
代表作品としてスタンフォード大学のキャンパスプラン(1880年)がある。従来の伝統的なデザインの風潮を批判し西海岸の乾燥した気候に適応した健康的で安らぎのある建築と庭園を提案している。地域性を考慮したり建築との一体化を試みたりと彼のデザインの中心には人が存在している。既存のデザインに様々な外的要素を取り入れた先駆者である。
オーレンス・ハルプリン
代表作品としてエンバカデロ・プラザがある。背景にある醜悪な高速道路の景観に対応するためにデザインされた広場のモニュメントが廃墟のように見える。しかしそこには水があふれ出てきたり人々が何処にでも入ることが出来ることで優れた景観になるという彼の思想のように寛ぐ人々の存在によってコンクリートの無機質さが造形美として周りの景色と調和している。
ダン・カイリー
代表作品としてオークランドミュージアム(1969年)がある。
ミュージアムの屋上部分を緑化し、都市に緑の小山を創出すると同時に、人々に憩いの場を提供している。“人間は自然である”が彼のテーマだ。自然と人間はそれぞれ別のものでなく、限りなく都市の中でも一体化していくべきだという彼の思想が感じられ樹木や土地の傾斜といった手法の中にエコロジーを表現している。
ガレット・エクボ
代表作品にフルトン・ダウンタウンモール(1965年)がある。ランドスケープの領域を個人庭園から公共空間に拡大させる契機になったアメリカでも初の不規則を取り入れることを試みた時代の作品で水の流れやベンチやオブジェに複雑なうねりが見られるが自然の要素をより多く取り入れ市民の生活の一部として溶け込んでいるように見える。

ピーターウォーカーは現代を代表するランドスケープアーキテクトで代表作品の一つとしてバーネットパーク(1983年)がある。スクエアな広場の中で、動線ランドスケープの施設との関係を明確に分析し、これに植栽を入れることで、見事なランドスケープの空間を作っている。ミニマムアートの影響を受けていると本人が言っているようにリズムも空間も色彩に深く関わりあいながらミステリアスでいて美しいアート作品のような場所である。
他のランドスケープアーキテクトの中で私が着目したのはダン・カイリーである。それは“重要なのはデザインではなく、その生命そのものである”という彼の言葉に触れたからだ。
私はこの言葉に彼がランドスケープ・デザインに対し神聖さと忠実さをもって関わっていた事が理解できた。又、彼は元々積極的に認知されることを求めていなかった為に出版の為に多くを書くことをしなかったにも拘らず彼の言葉は鋭く、彼自身を伝えている。
カイリー自身の歩んできた道は風変わりな歩みだった。1930年高校を卒業してから園芸学の大学研究科コースへ進んだ。当時は不景気のために仕事であれば大きな事務所でさえも何であれ飛びついた。カイリーはあちこちの会社に手紙を書きケンブッチのウォーレン。マニングが返事をくれた。彼はオムステッド事務所では園芸学のエキスパートであり1931年の暮れ、カイリーは賃金なしの年季奉公を申し出た。1年後彼は自給50セントを受け取っていた。更に2.3年後にはマニング事務所のチーフデザイナーになった。
カイリーがエマーソン・スピリットとも言える、直感的で自己への信頼と、偽者に対する用心深い精神の持ち主と会ったとするならばそれは、マニングその人であった。
カイリーは1936年から1938年まで週30時間はマニングの為に働きながら、特別聴講生としてハーバード大学に通っていた。
ここで出会ったガレット・エクボとジェームス・ローズ、それにカイリー3人と1937年にワルター・グロピウスの着任によってハーバードのランドスケープ・アーキテクチュア学科は刺激ある、そして美術、社会、技術に関する新しい考え方を持つ場所として急速に変化し始めた。
「彼らは環境を外観上の、表面的な認識を越えた深層を見ていた。居住、人間の労働、機械化、生産性、経済、レクレーション、環境的な平衡といった相互関係を考えていた。
 蜂の巣とビーバーのダム、公園道路と人形芝居の中に彼らは「種の完全な発展に最も好ましい自然環境」の証を見つけたのである。
 中国の段状の水田、ノースダコタの小麦畑、ライン川沿いのブドウ園の中に実用性と同時に美を見た。どんな知識や技術でも使用する農民は「最初のランドスケープ・デザイナー」あり、最小の支出で、彼らが必要とする生産高を上げることが出来る。
3人はヴィラ・デステやアルハンブラの庭園に匹敵するものとして、人間が積み上げてきた功績と向上心がつくりあげたデザインを劇的に取り上げたのである。」と書かれているように、しばしば私たちは自然の中の人間の営みの発したデザインに心を奪われる。
1938年にマニングが亡くなり、彼の会社が解散したので、カイリーはハーバードを去りニューハンプシャー州の国立公園でシルべスターのしたでドラフトマンとして働いた。
戦後、ニュルンベルク裁判のための法廷配置設計のために海外に派遣されてヨーロッパを発見した。
見えない庭の第6章には“孤高の古典主義者”と見出しがあった。
 私たちは常に存在の意味を探している。時にそれは金銭を使った自由奔放さに置き換えられたり、良き家庭人であったら子孫のために生命を残すことであるのかもしれない。
 芸術家にとっては作品を生み出すマグマのように奥の深い神聖な情熱なのだ。